1945年7月14日、戦場になり、世間御万人の袖を涙でぬらし - 屋嘉収容所

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http://www.okinawa-senjoh.com/yaka.htm

 

投降した日本兵や召集された防衛隊の多くが収容されたのが、現在の金武町嘉芸小学校の校地周辺にあった「屋嘉収容所」だ。

 

金武町公式観光情報サイトによると、

 

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第二次世界対戦後の1945年、焼け野原となった金武村屋嘉集落の跡に、米軍は投降した日本軍将兵およそ7千人を収容する「屋嘉収容所」を設けました。米軍の厳しい監視下の中でも、沖縄出身の捕虜たちは、空き缶やあり合わせの木材を使いパラシュートの紐を弦としたカンカラ三線を作り演奏するようになります。戦争の悲哀を歌った「屋嘉節」は屋嘉収容所で生まれ広まりました。

 

という。

 

屋嘉節の歌詞は様々なバージョンがあるが、下はよく知られている歌詞だ。

 

なちかしや沖縄 戦場になやい 世間御万人ぬ袖ゆ濡らち
なちかしや うちなー いくさば になやい しきん うまんちゅぬ すでぃゆぬらち

悲しいのは、うちなー、戦場になり、世間御万人の袖を涙でぬらし


涙飲でぃ我んや恩納山登てぃ 御万人とぅ共に戦凌じ
なみだぬでぃ わんや うんなだき ぬぶてぃ うまんちゅとぅとぅむにいくさしぬじ

涙を飲んで、私は恩納山に登り、多くの人と共に戦をしのぎ

あわり屋嘉村の闇の夜の鴉 親うらん我身ぬ 泣かんうちゅみ
あわりやかむらぬ やみぬゆーぬがらし うや うぅらん わみぬ なかん うぅちゅみ

哀れ屋嘉村の闇の夜のカラスよ、親がいない私が泣かないでいられようか

無蔵や石川村 茅葺きの長屋 我んや屋嘉村の砂地枕
んぞや いしちゃーむら かやぶちぬながやー わんややかむらぬ しなじまくら

あなたは石川村の茅葺の長屋、私は屋嘉村の砂地が枕

心勇みゆる四本入り煙草 さみしさや月に流ちいちゅさ
くくるいさみゆる しふんいりたばく さみしさや ちち に ながちいちゅさ
心励ますことができるのは四本入りの煙草、寂しさは月に流してしまおう

 

参照 屋嘉節:たるーの島唄まじめな研究

 

youtu.be

 

しきん うまんちゅぬ(世間の人々は)くらさ みそち(苦しんでいる)

 

沖縄戦を経験した人たちの苦しみとは比べものにならないが、現代の沖縄に生きる我々もまた、苦しんでいる。

 

戦後、米軍に統治された期間が27年。

 

その米軍統治時代が長すぎたためか、戦争を沖縄に持ち込んだ日本国を「祖国」と決めたウチナーンチュたちが

 

彼らは、何もかも「日本式」を良しとし、沖縄の経済発展のためならば、環境破壊をも良しとしてきた。

 

屋嘉収容所では、日本兵が沖縄人になりすまそうとしたり、その逆に、沖縄人が日本人になりすまそうとしたケースもあったそうだ。

 

琉球・沖縄が、太古の昔から日本であったのならば、そのような「なりすまし」は不要だったはずだ。

 

戦後の「祖国復帰」を叫んだ沖縄人が、自らが招いた今のうちなーの状況を見たらなんと嘆くだろうか。

 

今の状況とは?

 

もちろん、どこまでも対米従属な日本国の法律に縛られることだ。

 

そのことで、『しきん うまんちゅぬ(世間の人々は)くらさ みそち(苦しんでいる)』。

 

1945年 7月14日 『屋嘉収容所』 

neverforget1945.hatenablog.com 


kangaeruhito.jp

 

 勝田さんがある時、収容所に到着した時のことを語った。珍しく、悔しさのような腹立たしさのような、なんとも表現しづらい感情が口調ににじんだ。

 

 向こうに行ったらもう何千人という兵隊が集まっておってね。もう健康体そのものですよ。我々はずっと食べ物もないし、やせ衰えて、色も白々としてね、髭も生えてるんだが……。

 

 先に収容された人たちへの複雑な思いは、さまざまな戦争体験記を読んでいると時々出会う。外間守善の記録は、ここでも面白い。

 

 収容所の中には所長(連隊長格)、大隊長、中隊長と呼ばれる「エリート」がいた。旧軍隊の階級などまったく通用しなかった。「エリート」の彼らはなんと米軍上陸後、いち早く捕虜になり、米兵気に入りの兵隊たちであった。捕虜収容所長は旧日本軍では上等兵だった。彼らは捕虜収容所内で肩で風きる風情だった。日本軍人として戦闘行為をしなかった彼らの横行を憎々しげに見ていたのは私だけではないようだった。(外間守善『私の沖縄戦記』)

 

 一般に沖縄戦日本兵は勇猛果敢だったと言われるが、実は戦闘に参加した者ばかりではないようだ。侵攻する米軍を迎撃せずに壕の中でやり過ごした後、あっさり投降して軍の機密を暴露する兵や軍属の存在に32軍司令部が苦慮した記録もある。沖縄戦の全期間を収容所で悠々と過ごした者もいたようだ。

 

 そうした人々への軽蔑を示す言葉を、最前線に投入されて犠牲の大きかった62師団の小隊長だった人が手記に書いている。収容所内では、8月15日以前に捕虜になった軍人軍属を「ふんどし組」と軽蔑を込めて呼んだそうだ。投降勧告ビラの挿絵に、ふんどし一丁で投降する絵が添えられていたのが語源だ。

 

 

www.qab.co.jp

県内各地に設けられた収容所。そのひとつ、知念村屋比久の収容所で65年前の7月15日、一人の日本兵が逮捕されました。

八原高級参謀長。

32軍司令部で牛島司令官、長参謀長と共に沖縄戦の戦略を練ってきた人物です。八原高級参謀長は守備軍解散命令の出た6月18日の翌日、摩文仁の司令部壕を出て、本島北部へと向かいました。

大田昌秀さん「最後の酒盛りをして宴会、お別れの酒盛り。正装してね、軍服。ところが、翌19日になったら、軍服を脱いで、そして僕らの同僚を連れて道案内にして、守備軍の壕を出て行った」

それは、牛島司令官と共に自決した長参謀長の命令を受けた行動でした。『主要な参謀を本土に帰還させ、本土決戦に備える』

八原高級参謀長は身元を偽り、住民に紛れ、疑われないように米軍作業にも参加しながら、密かに国頭から小船で与論を目指し脱出することを考えていましたが、ひと月足らずでその夢は断たれました。