負傷兵 - 「自決」を強要されたものたち

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《AI-colorized》【原文】 Stinson L-5 coming in for landing on narrow road used as runway for planes evacuating wounded Marine from front lines to rear hospital area.
【和訳】 スティンソンL-5機が道路に着地。この飛行機は負傷した海兵隊員を前線から後方の病院へ運ぶ
撮影日: 1945年 6月13日

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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【シリーズ沖縄戦】74年前の今日
1945年 6月12日 『どうか死んでくれーッ』
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74年前の今日、

 

海軍司令部壕のある小禄半島は
完全に米軍に制圧されつつあった。

 

南側にある瀬長島は今では観光スポットとなり、
戦争の面影などみじんもないのだが、

 

当時は日本海軍が砲座を置いていたため、
上陸して占領する必要があった。

 

1933年から海軍の小禄飛行場 (現那覇空港) の拠点となっていたこの地域は、いざ包囲されると逃げ場なく、

 

米軍に投降する日本兵や住民がいる一方で、「自決」に追い込まれる者たちもいた。

 

海軍の司令部壕内にいた人びとも、米軍の砲撃を受けながら、

 

自決するか、自力で避難して陸軍と合流するか、決断を迫られていた。

 

だが、負傷して身動きが取れない者たちには、「生きる」という選択肢は与えられなかった。

 

『自力で行動出来ぬ者は、残念ながら自決してくれ。』

 

なぜ投降することが許されず、
死ななければいけないのか。

 

なぜこれほどまでの犠牲をはらって
軍に協力しなければならないのか。

 

なぜ、天皇が「神」として崇められ、
命懸けで「御真影」を守る人たちがいたのか。

 

74年前のこれらの「常識」は
今の我々の「常識」と程遠いものなのだろうか。

 

ご覧ください。⇩

1945年 6月12日 『どうか死んでくれーッ』

neverforget1945.hatenablog.com

 

 

また今日は沖縄が生んだ偉大な歴史学者で県知事の大田昌秀さんの誕生日と命日でもあります。あわせてご覧ください。

 

okinawa1945.hatenablog.com