救護所で治療と食糧の配給を受ける民間人。ほとんど全員が負傷している。これは、日本軍狙撃兵が彼等に向けて発砲したためで、寄り集まって(行動を共にして)いる(1945年6月10日撮影)
Civilians getting aid and food at aid station. Almost each one was wounded in some place. At this time, a Jap sniper was firing down at them so they were together, huddled in a group.
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【シリーズ沖縄戦】74年前の今日
1945年6月10日 『戦いは米軍の独り舞台となる』
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74年前の今日、
むろん戦況は誰の目にも明らかだった。
さすがの第32軍の八原高級参謀も、
『今では戦闘の様相が、既住のそれとは一変し、戦いは敵の一方的独り舞台になってしまった』と、記録している。
米軍側も同様に捉えており、
『沖縄戦の様相は一変した。…戦車は自由奔放に十分活躍した』と記録している。
平坦地が多い南部では、米軍の進攻は加速化した。
そんな米軍をむかえたのは、
惨敗兵と県民からなる「つぎはぎ部隊」。
そしてもはや戦うことができなくなった負傷兵は「現代日本陸軍の理想精神よりすれば」自決しかない。
また同様に
県民も軍民共生共死の出口なき宿命に閉ざされた。
それに背いて生き残れば、
逆に日本兵に命を狙われることになる。
そして青酸カリ。
米軍のバックナー中将の側近だったジェームス・バーンズ曹長は、家族への手紙の中で、怒りを込めてこう記した。
『兵器も乏しく、負けるのは時間の問題だ。これ以上戦闘を続けることに何の意味があるというのか、全く理解できない』
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1945年 6月10日 『戦いは米軍の独り舞台となる』
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