「義勇隊」

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Akira Nakamura Family Collection から。アキラ・ナカムラは MIS (U.S. Military Intelligence Service) から沖縄で通訳として従軍。多くの写真を撮影した。しかし説明がなくこれからの研究がまたれる。
Akira Nakamura Family Collection | Densho Digital Repository

 

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【シリーズ沖縄戦】74年前の今日
1945年5月30日 『死の行進』
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74年前の今日、

 

第32軍司令部首脳らは、
首里撤退後、津嘉山の壕を経由し、

 

最終地となる摩文仁へ移った。

 

その道中、大本営の求める「持久戦」に、骨の髄まで忠実であった作戦参謀の八原陸軍大佐は、南部を目指す兵隊らを目撃し、彼らの歩みを『退却中とは思えない堂々たる行進』だったと表現している。

 

八原大佐は、道端でおびただしい兵隊や住民の死を目撃しているのだが、

 

また、南を目指した群衆の進行方向とは逆に、北を目指して「行進」している一団も目撃している。

 

前線が敷かれた「北」へと送られたのは、日本兵ではなく、かき集められた住民たちだ。

 

彼らは女性や高齢の男性たちで、「義勇隊」という名称を与えられ、砲弾の雨が降り注ぐなか、前線まで弾薬や物資を運ぶよう命じられた。重い弾薬や物資を徒歩で運べというのだ。

 

彼らの行進は、
文字通り『死の行進』だった。

 

そんな義勇隊を集め、
監督したのは警察官たちだ。

 

それは、日本政府と米軍の要請で米軍基地のゲート前に立ち、日々、県民を強制排除し、命じられた仕事を果たそうとする、現在の警官や機動隊員、海で米軍のために働く海上保安官たちの姿と重なる。

 

 

 

住民を守ってくれるはずの軍隊や警察は、住民ではなく、命令をただただ守っていたのである。

 

輸送隊にかりだされた住民は
怒りを警察官に向けた。

 

「抜刀した友軍の将校らが村の壕に現れ、『出ろ、すぐ出ろ、兵隊がいなけりゃ、この島が守れるか。出なけりゃ、これだぞ!』と、日本刀や拳銃を突きつけたんだ。抵抗の出来ない女、子供や年寄りたちを、村の壕から追い出したんだ。追い出された人たちは焼け残った馬小屋や石垣の陰にしゃがんだり、集落内を右往左往しているうちに、糸満沖から射ちこまれた艦砲で、皆やられてしまった」

「我々は勝つために命がけで軍に協力しているのに、その軍が罪もない親、兄弟姉妹を死に追いやっている。そんな軍に、どうして協力できるんだ」

 

那覇署の警官はこう記している。

 

「義勇隊にかり出された人々は泣き叫ぶ妻子や家族と別れ、破裂する砲弾の中を突破して行きました。」

 

軍も、警察も、沖縄を守るといいながら、守っているのは命令と自分の面子だった。

 

沖縄をまもっているわけではなかったのである。

 

ご覧ください。⇩

1945年 5月30日 『死の行進』

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