【AIによるカラー化】負傷した日本兵を捕らえた海兵隊員。(1945年5月11日撮影)
Marines capture wounded Jap.
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【シリーズ沖縄戦】74年前の今日
1945年5月11日 『警察別動隊の沖縄脱出』
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米軍は兵員、物資、武器を豊富に持ち合わせていただけではなく、兵站を戦略の根幹に置き、力を入れていた。
一方で日本軍は、
兵站よりも現場調達。
これでは兵員、物資、武器の全てにおいて消耗し続け、
現場は潰れてしまう。
それが端的に表れたのが
インパールの戦いといっていい。
なぜ日本は兵站を軽視したのか、
ひとつには近代的戦術研究の欠落、
日本はまだ戦争と略奪という中世的戦術から
一歩も脱してはいなかったということもあるが、
もっと単純に言うと、
日本の戦争にとって大切なのは
戦略の算術や装備、兵士の食料や命ですらなく
神国日本の国体と靖国の精神論だったということだ。
「神さん神がかり」とまで陰口をたたかれた神重徳参謀は、このような迷言でも知られている。
「これまでの戦闘において失敗したのは勇気が欠けていたためである。勇気さえあれば優勢な敵航空兵力があっても、大艦をもって上陸作戦時の攻防戦に参加させることは必ずしも不可能ではない」
その「神がかり」の航空参謀、神重徳とは異なるが、
74年前の昨日
、もう一人の「神参謀」が沖縄脱出計画を立てた。
名目的には
沖縄に援軍を求めるためだが、
一方、口だけの勇ましい神国日本の軍人らの対応に、県庁側も徐々に不信感が募ってきたのだろうか。
県側も、
軍とは別の派遣団を本土に送ることに決めた。
軍隊の任務は「戦闘」だが、住民の安全確保や食糧調達は県や各自治体の責任だ。
日本軍が沖縄で持久戦を続ける状況下では、食糧や物資がどん戦争と兵士に奪われていく。
そこで島田知事の右腕でもあった警察部長の荒井退造は、74年前の今日、
県民の窮状を内務省に伝えるため、
部下数名を東京に派遣することにした。
周りを米軍に包囲された
沖縄脱出するのは容易ではない。
幾多の困難をくぐり抜け、生き延びた派遣団が東京に到着するのは、なんと二か月後のこととなる。
さて、
沖縄戦から74年もたつが、
この構図は
今もほとんど変わってないことに驚かされる。
一方的に軍をおしつけられ
米軍や自衛隊駐留の膨大な負担にあえぐ沖縄は、
何度も何度も東京に出向き
窮状を訴えてきた。
その県民の声はほんとうに
本土のみなさんに届いているのだろうか。
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