2020年
伊江島飛行場が完成したのは
米軍上陸の1ヵ月前。しかも今度は撤退に際し、再び住民を動員して完成したばかりの飛行場を自ら自壊。
伊江島が攻撃されても、伊江島の防衛を任されていたはずの本部半島の大砲は一発も撃たないまま退却。
これが日本軍の「東洋一の飛行場」の実体だった。
特攻艇も大砲も飛行場も
ほとんどその機能を果たすことなく退却をくりかえす。75年前の今日
本部半島から日本軍が撤退するがその際、300人あまりの負傷兵に手榴弾が配られただけではない。
軍に貢献してきた地元の国民学校の校長や、軍に食料などを納めていた商人が「スパイ」として惨殺された。
二人とも、積極的に「友軍」に協力してきたはずなのだが、
日本軍にとって「スパイ」という外来語は、本来の意味から大きく外れ、都合のいい弾圧と暴力の口実として使われた。
住民に「友軍」と呼ばせる、その「友軍」が住民を襲うという倒錯した情況が生まれる。
軍は本当に住民の「トモダチ」たりうるのだろうか。いま在沖米軍はトモダチ広報に余念なく、次なる「友軍」の名誉にあずかろうとしているが、
今の在沖米軍の基地運営をみれば、どれだけ基地というものが地元を無視し踏みつけにする存在なのか、おのずとわかる。
2019年
馬乗り攻撃とは、壕の入り口や地上にあけた穴から、日本兵や住民が隠れている壕の中に、手りゅう弾やガス弾を投げ入れたり、火炎放射器の噴射やガソリンを流して火を放ったりして、中に潜んでいる者たちの全滅や投降をはかったものである。
緋寒桜の名所で有名な名護市や本部町の八重岳でも、恐ろしいゲリラ戦が展開されていた。
海沿いの国道449号線沿いを通れば、今は、削られ土砂として切り崩される安和岳の粉塵で道路も白く埃たつ。
辺野古埋め立ての土砂は、
現在ここの海側の山を削りだしているのだ。
そこからさらに山深くの頂上あたりに
八重岳野戦病院跡がある。
病院といっても、
実際には掘っ立て小屋でしかなかったが、
74年前の今日、
宇土部隊撤が撤退した後、ここにおよそ300人の重傷者が、手榴弾を手渡されるなどして置き去りにされた。
現在は、本部町教育委員会の看板と、看護婦要員として支隊に従軍した「なごらん学徒隊」の標柱が立つほか、草むらに壕跡がかろうじて残る。
その野戦病院で看護学徒隊として従軍させられた名護市の第3高等女学校のなごらん学徒隊も、もはや兵士の足手まといでしかなかった。
ある兵士は銃を向け、「女は邪魔だ。ついて来ると撃つぞ」といいはなった。