日本軍は沖縄の子どもたちを兵力として利用することを既に前もって計画していた。
そのための徹底した「愛国教育」だったといっていい。
法令違反にもかかわらず、満17歳未満の少年を強制的に「志願」させ、厳しい訓練を加えた。
戦前、沖縄には21の中等学校がありました。沖縄戦では、これらのすべての男女中等学校の生徒たちが戦場に動員されました。女子学徒は、15歳から19歳で、主に看護活動にあたりました。男子学徒は14歳から19歳で、上級生が「鉄血勤皇隊」に、下級生が「通信隊」に編成されました。鉄血勤皇隊は、軍の物資運搬や爆撃で破壊された橋の補修などにあたり、通信隊は、爆撃で切断された電話線の修復、電報の配達などの任務に従事しました。沖縄戦により、学業半ばで多くの学徒が短い生涯を散らしました。
日本軍は、沖縄本島中南部では陣地壕における持久戦を展開し続けた。
陣地近くまで進撃した米軍に対し、攻撃する。
その戦術は、本島北部の主力部隊においても同じであったが、
北部は、中南部よりも広範囲の守備を任されていたにも関わらず、配備できる兵士の数は最初から乏しかった。
そんな北部の部隊に対し、第32軍司令部は、
米軍に制圧された後はゲリラ戦に転ずるよう指示していた。
沖縄本島北部には、
亜熱帯樹林が生い茂る山々がいくつもある。
日本軍は、米軍が沖縄に上陸する前の年から、地域の少年たちを召集してゲリラ部隊をつくりあげていたが、
1945年3月末に沖縄県立第三中学校の学徒の一部もゲリラ部隊に組み入れ、を加えて訓練させ、
暗号や通信、斥候や歩兵、はては爆弾を背負わせ切り込み隊に従事させた。
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故郷を護るという意味を持つ護郷隊だが、実際は、護郷隊は少年たちの心とふるさとを破壊した。